「後ろめたいよね、牛だけに」
BBQの際、誰かが口ずさんだ一言だ。
状況は至極簡単である。
これはBBQにおいて、一番最初にどの肉を焼こうかという誰にでも起こり得る大変重要な問題である。
牛肉か、豚肉か、鶏肉か、野菜か、ウィンナーか、はたまたこてっちゃんなのか。
トングを手にした焼き係が、網の綺麗な内に「塩味の豚トロを焼こう」と言ったことに対する、
切り替えしの言葉がこの「後ろめたいよね、牛だけに」なのである。
つまり、一番手は後ろめたい牛ではなく、塩味の豚からである、単にそういう事なのだ。
しかし、おじさんは考えた。
牛は、後ろめたいから、後回しだというのだ。
言い換えれば、牛は、やましいから、後回しという事。
牛はやましいのか……という疑問が渦を巻いて襲い掛かっていたのである。
「牛」と一くくりで言ってしまうとあまりにも範囲が広すぎるのではないのであろうか。
松坂牛、米沢牛、神戸牛、食用と言われる格下の牛、乳牛、闘牛、牛車、etc、
牛はそのポテンシャルをそれぞれの分野で発揮し、人々に笑顔を与えているのだ。
この中でやましい事を考えている牛は……一匹たりともいないのではないだろうか。
やましいどころか、牛は堂々と胸を張って山手通りを闊歩しても良い程、人々に価値を与えているのではないのか。
おじさんは不思議でならないのだ、何故、牛が、後ろめたいのかを。
皆もこの機会に是非、口を揃えて言って欲しい。
「後ろめたいよね、牛だけに」と。
何か、何処かに、引っかかる点はないか?
おじさんと同じように、疑問に思った人はいないのか?
もし少しでも違和感を感じる者がいれば、勇気を持って、両の手を挙げて脇の毛をそよがせるべきだ。
後ろめたい牛、
うしろめたいうし、
ウシろめたいウシ……
あっ!
「ダジャレを言ったのは、誰じゃ」
おじさんが勉学と部活と性教育に勤しんでいた中学生時代、
何の因果か、クラスの一角でダジャレという文化が流行した。
所謂、「手袋を反対から読んでみて?」という小学生レベルの、
それはもうひのきの棒でスライムに立ち向かうレベルの話ですよ。
布団がふっとんだ、レモンのいれもん、ラクダは楽だ、王道ですね。
ギターをぎったなんてキザな事を言ったら冷やかしものな時代ですよ。
当時の中学生でギター持ってる奴なんてキザ野郎に決まってますからね、
頭クリクリ野球部のおじさんにとってギターなんて夢にも見ない代物で、
しかもそれを「ぎる」という少し不良(わる)な感じを含ませるなんて、
そんな崇高なるダジャレなんて思いつくはずなんてありませんからね。
そんなダジャレに対して、至極熱心だと思われる先生が一人いた。
社会科担当である、生(なま)という漢字から始まる先生だった。
ここでは敬意を込めて、生中(なまちゅう)先生と呼ぶ事にしよう。
先に言っておくが、決して悪い先生ではない。
いや、むしろ少年から青年に向かう小便臭い中学生のおじさんにとってはとても魅力的な先生であると言えた。
常に渡辺美里を口ずさみ、勝手にラーメン屋の屋号をテーマに歌を作ったり、
授業中には男子中学生が好みそうなセクハラまがいのトーク全開という、
今のご時世ならいつ追放されても何の問題もない、そんな先生だった。
そして、おじさんの所属していた野球部の顧問であったりしていたのだが、
野球についての知識は無いに等しかったのがまた可愛らしいではないか。
そんな野球部ですが、おじさんの1個上の世代はほんの少しだけ荒れていた感じで、
まぁ、所謂、心優しい、不良ですな、そんなお方達が数人所属しておりまして、
練習中はいつも下級生のケツにカンチョウを狙っている、そんなお方達と練習を共にしておりました。
生中先生の事を『生中ちゃん』と呼ぶ方達ですよ、
小心者のおじさんには到底真似する事のできない事をさらっとやってしまう猛者達ですよ。
そんな先輩方も3年生になり、負けたら引退という最後の試合でドラマは起こるのです。
7回2アウト、ランナー無し、2点のビハインド、絶体絶命の大ピンチです。
そこですかさず、生中先生はタイムを要求し、審判にこう告げたのです。
生中先生「代打、悪夫!」
(→悪夫は、猛者のうちの1人を表します)
引退がかかる最後の試合、真面目に練習を重ねてきた3年生に代わり、
練習などほどんど参加していない悪夫を代打に送ったのです。
誰しもが思ったことでしょう、記念に試合に出させてあげたんだ、と。
そして、この試合、負けたのだと。
生中先生はおもむろに手招きで悪夫を呼んだ。
その刹那。
ぶひっ、ぶすすす~~~。
誰もが耳を疑った瞬間である。
真夏の炎天下の下、3年生にとっては引退のかかる大事な試合の真っ只中、
誰が3日間大便の出ていない放屁の音がグラウンドに響く事を予想できたであろうか。
生中先生「あ、緊張したら屁が出た」
苦笑うしかない。
そして、生中先生は続けて言うんだ。
生中先生「いいか、俺は野球を教えることはできなかった。
だけど一言だけ言わせてもらうから良く聞けよ。
野球は、セックスだ」
時が凍る。
部員全員の頭の上に?である。
生中先生「積極的に行けよ、セックスだけに」
殺意。
部員の誰しもがそう思った事だろう。
この土壇場でダジャレなのか!?
そもそもセッキョクと、セックスって……かかってなくないか??
でも「だけに」とか言っちゃってるし。
いや、もしかしたら、生中先生はダジャレを言った事に気が付いていないのかも知れない。
そうだ、そうに違いない。
もし確信犯で言ったのならば、全身の毛をゴキブリホイホイでむしり取られても文句は言えない。
なんですかそれ~、と部員皆で笑ったものである。
ははははは、まったく、炎天下で汗が蒸発しきった、いやに乾いた笑い声でありました。
悪夫がバッターボックスに入る。
そして、その顔には、一点の迷いも無い。
カキーンッ!
打った! 大きい! 大きいッ!! 抜けた~~~!!!
打った打った、見事な(ランニング)ホームラン。
あの悪夫が、あの場面で、一矢報いたんですよ。
生涯初のホームランだと、悪夫は涙しました。
セッキョクとセックスをかけた下らないダジャレのお陰と涙するのだ。
そんな悪夫の姿を見たサリは、そんな事もあるんだなと2度ほど頷き、そして目頭を熱くしたものだ。
試合は、そのまま1-2で負けてしまった。
でも、勝ち負けなんて、きっとどうだって良い。
大切なのは、その悪夫を含めた野球小僧共が、何を感じたか、だ。
セッキョクとセックスなんて似ても似つかないその言葉で、
プラス要素として緊迫した場面での放屁で、
悪夫に襲い掛かる緊張と重責を一瞬にして取り除いた。
それが、唯一無二の事実として存在するのだ。
そんな奇跡のような熱い夏の日の事など、誰が忘れることができるのであろうか。
負けた後の反省会で、生中先生が言った言葉を、おじさんは今でも覚えているよ。
生中先生「俺は、セックスは生が好きだ、生中だけになっ」
皆、良く聞いてほしい。
ダジャレは上手いとか下手だなんてことは、全くもって関係ないんだ。
要は、言葉を発するだけの勇気なのだ。
その勇気が、人の心に響き渡った時に、奇跡という気まぐれはたちまちやってくるのだ。
「後ろめたい牛」が本当に存在するかなんて、
「ど~しよ~、これ食べたら太っちゃう~」と体脂肪率40%の人が言うくらい、どうだっていい。
必要なのは、どんなにくだらない事でも自信を持って、胸を張って言えるかなのだ。
そしてその勇気が人の心を動かすのだという事だけは覚えておいてほしい。
だからおじさんもお風呂上り、かつてのBBQや海や河原で培った日焼けでできたシミを見た時に、
勇気を持って、胸を張って、こう言ってやるのだ。
「シミーズ着て寝ようかしらん、シミだけに」と。
あぁ、なんと、シミったれた人生なのでしょうか。
以上、第33回マッソー斎藤の今夜もプロテインでした。
次回、お化け屋敷は刹那の吐息!(未定)